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かわら版:NEWS 一覧

2003.02.28 from萬斎
13年目のハムレット その2〜古典としての『ハムレット』 その魅力を掘り下げるために

萬斎師に、再び『ハムレット』を演じる思いを中心に語って頂きました。

ここからは作品をどう立ち上げていくか、『ハムレット』上演プランについて、さらに詳しく伺おうと思います。


◆シェイクスピアの"古典としての魅力を問い直す"というのは、例えば『まちがいの狂言』で行った、"シェイクスピアの作品世界を日本の古典=狂言の手法で読み直す"という作業とは違うのでしょうか?

 『まちがいの狂言』は、『間違いの喜劇』というシェイクスピア作品をグッとこちらの手の内に引き込んだ、題材として頂いたという感覚だったと思います。今回は私たちの方から、シェイクスピアの世界に寄っていく。上演方法は現代劇ですが、戯曲の解釈というか、あくまでも古典劇として読み、立ち上げていくという事を指針としています。


◆戯曲がもともと持っている魅力にアプローチする、と。

 ええ。それは、ここ最近様々なシェイクスピア作品の上演を観るうちに、自分の中に湧き上がって来た思いでもあるんです。シェイクスピア作品は普遍的なものであるがゆえ、実に幅広く多彩な「解釈」を許してくれる。近年はそれが行き過ぎて、作品より「解釈」のヴァリエーションばかりが先行している風潮があるような気がしているんです。特に本国のイギリス。舞台にしろ映画にしろ、ヘリコプターが飛び、機関銃を撃ちまくるというような過剰な仕掛けを施して、何を観に来たのか分からなくなるようなシェイクスピア劇がある(笑)。イギリスでは古典としてのシェイクスピアは当たり前過ぎて、いかに「今風」に読み替えるか、ばかりになっているんでしょうね。

でも、シェイクスピアが書き、上演していた当時は、役者が舞台に出て来てただ台詞を語るだけで十分に観客を満足させていた。今に比べれば遥かに観客が素朴だったということを差し引いても、そんなシンプルな上演が許されたのは、シェイクスピアの戯曲がそれ単独でも十分に成り立つ物語、言葉を持っているからだと思う。そして、そんな「解釈」に頼らず古典劇を読み解くことにかけては、最近ではむしろ私たち日本人の方が上なのではないかというのが、今回の『ハムレット』上演の根本にある発想なんです。

私たちは普遍的に、またある種不変のものとして古典芸能を継承していますから。


◆だからこそ、新訳も必要だったんですね。

 そう。観客が戯曲に書かれたことを実感できる、というのがまず『ハムレット』上演当時の状況を作るためには必要だと思った。そのためには現代の観客に届く言葉が必要で、それが河合さんによる新訳なんです。ハムレットが悩んだら、観客も一緒に悩めるのが「戯曲を実感する」ということ。オイディプス王を演じた時に得た、「観客と一緒に運命の旅をしたい」という思いからの発想でもあるんですが、特に主演するということは、観客を劇世界に導き、そのキャラクターと一緒に歩ませることでもあると思うんですね。

その「旅」を今度はハムレットでやろうとしているわけです。

...To be continued

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